第五振興町会 会長挨拶
CHAIRMAN GREETING
こんにちは
2017年より三友会(堀江連合第五町会)会長を務めておリます。
阿部雅祥です。
大阪堀江の街は毎年人口が増えており、今まで以上に活気ある街へと発展を遂げております。理由としましては、環境の良さや交通の利便性、住みやすくオシャレな街というイメージが挙げられますが、何よりも歴史と伝統を誇る堀江小学校の優秀さに入学希望者が殺到しており、今後、児童数は千五百人を超えると予想され、街全体が益々の発展していくと思われます。
しかしながら人口の増加に比例して、治安の悪化や堀江に住む人たちの繋がりが失われていくことが危惧され、治安の維持と町内コミュニティの向上は今まで以上に深刻な課題といえます。
同じ地域に住む皆様が街との共存を大切にすることで、より安全で安心できる街となり、今以上に住みやすい街へと発展すると考えておリます。
そのため、堀江の街がより安全で人と人との繋がりを大切にできる街づくりを目標とした、町会員さんの増加が三友会の想いです。
小さなイベント一つからでも良いので、まずは参加していただき、町内会のことを少しでも知っていただければ幸いです。
大阪という街は、淀川の下流の州が発達した街です。安土桃山時代に豊臣秀吉は大阪城を建てた後、城の西側の土地を開発し町づくりに励みました。その土地は低湿地帯で、人が住むには難しい環境でした。そこで、多くの掘割りを作りその土を土地に盛って宅地にしていったそうです。
その後、江戸時代になり土地が整備され、立売堀川や長堀川、堀江川など様々な川の周りで街が発展していきました。ちなみに「堀江」という名前は、その当時、下難波領(難波神社の領地)だった土地を南北に割るように堀江川が掘られ、北側を北堀江、南側を南堀江と呼ぶようになったと言われています。
そんな私たちの住む堀江の街は、江戸時代から新地として開発され多くの藩の蔵屋敷が立ち並ぶようになり、土佐藩のあった場所では、土佐で取れる鰹が荷揚げされるなど、諸国の産物が集まる非常に活気のある街となっていきました。また材木商や家具製造が盛んになったり「青物市」と呼ばれる、野菜市場が出来るなどし商業の街として発展しました。
明治元年5月大阪府が設置され、翌年には大阪市街地は東、西、南、北の4大組に編成されました。その中の西大組の第五番組、第六番組、第十一番組が現在の新町あたリます。明治12年2月の郡区町村編成法施行に伴い「大阪府西区」に、明治22年4月の市制施行によって「大阪市西区」となり明治・大正・昭和の初めにかけ街自体は産業の発展とともに飛躍してきました。
第二次世界大戦時の大阪大空襲で、ここ堀江の街は全焼しました。鉄筋の建物が焼け残りはしたもののほとんどが灰燼に帰したものの、復興は徐々に進み、昭和46年には再び商業の街として発展していきます。時代は水運から陸運へと変わり、堀江をめぐる川は西道頓堀川と木津川を除きすべて埋め立てられました。
長堀川は長堀通りとして東西の幹線道路して生まれ変わり、立売堀川と堀江川は住宅などの土地に利用され、今では碑や立て札が残るのみとなっています。
このように時代の流れに合わせて街の色を変えながら発展してきた堀江という街は、今もなお新しく変わり続けています。
「堀江」と言えば、伝統的「家具の街」でありタンスや欄間、仏壇などを扱う店が多く、以前より大阪各地から人が集まる地域でもありましたが、南堀江にあるオレンジストリートと呼ばれる立花通りや堀江公園界隈を中心に、ここ最近おしゃれなまちなみが広がりつつあります。
カフェやバー、インテリアや雑貨店の他にヘアサロンやギャラリーなど、様々な新趣向の店が次々と出店し、土曜日・日曜日の休日にもなると、この地域には、若者を中心に多くの人々が散策し、賑わっています。とはいえ、若者の集うトレンド的な新しいイメージだけでなく、対照的に地域に住む人々の生活感も漂うなど相反するこれらが調和しています。旧来の店舗や住宅、オフィスビルと、それらを改装した新しい店舗、新築の現代建築、緑の多い公園などが混在し、キタやミナミといった旧来の大阪の商業中心的な繁華街にはない緩やかな空気が流れている。
古いものの良さを残しつつ、新しい街並みが調和を保ちながら発展している街、大阪堀江。
これからも時代にあった変化をしながら、新旧が混在しながらも調和し、人々に愛されながら活気ある街として歩んでいくでしょう。